場所を東に移り、軽便鉄道すらもなかった時代の馬鉄道が富士宮に有るとの事で彼の地に向かう。
当時は「大宮町」と称し浅間大社を中心にして栄え富士山への登山の出発点の場所で有る。 製紙町「富士市」の隣に位置して、その富士市に木材を運ぶ為の馬車軌道が明治の時代に出現した、 その名を「富士軌道」と称する。 北山に親戚が有ることから接点は繋がるがそれでも知らない町故机上で下調べをしていっても何処が何処だか分からず うろうろしっ放しのスタートである、 当然の事ながら車でそのまま走れる道では無いので行っては返し又行っては返しの連続であった。 が、何とか第1機としての上井出まで到達したのでその道のりを掲げておこうと思う。 #
by micmacbig
| 2019-03-24 06:35
| その他の鉄道
訂正場所が有った古道ですが改めて再考してみました。土地宝典、法務局の旧公図、牧之原市の旧公図そして、江戸時代の村絵図を照合してみました。
すると、結論は数年前ここだと近隣の古老達に教えて頂いた道すがらが中心でした。 大江地区の駿遠線と絡み合う様に進んで来た古道はお墓の所から真っすぐに萩間川に進みます。 何故に、大きく山側に迂回したんでしょうか? それは、前回述べた如く防災センター横の江湖橋が米蔵に運び入れる為船着き場で有ったと予想されます。 そして、旧道を東に向かい、150号線に斜めに入る所からやおら山側に進み道なりに細き道を進んで行きます。 現在は車での進行は不可能で歩くしか出来ない道です。 程なく進むと小さな交差点?に出会います。 ここの場所にその昔東藤枝、北金谷の感じの道標が有りましたが何時の頃か消滅したそうです。 残念!! さて、道は左にカーブして進んでおりますが、古道はこつ然とそこから消え民家の中を進んで行きます。 ここからは、成る程この辺かと眺めるしか有りません。 そして、民家を超えると新たな道が出現して東に進んでおりますが、道は道ですが残念な事にここからは私有地となって正式には進めません。 図面を見ると、家々の並びは均等となっておりますので道が有る事は想像出来ますが私有地故道としての存在は有りません。 現在の150線は当然無く、相良街道を有りませんでした。 従って、旧道への斜めの道辺りから坂井のKレディー辺り迄は松の生い茂った砂山が点在していた様です。 それを明治の時代に砂丘を整地して区画したでしょう。 著作権の関係で村絵図を出す事は出来ませんが坂井の村絵図には緑でこの辺が記され畑地さえも無かった事が頷けます。 余談ですが、軽便路線が描かれていてふくらみの有る所が「太田浜」の駅です。 そして、先程の大江地区に入りますがここの接続が意次氏が江戸に帰った後使う者も無しに荒れ放題となり野道同様で道が消滅したと考えられます。 #
by micmacbig
| 2018-12-16 18:41
| 田沼古道関連
完成と思われた古道のルートですが、新たな資料に依るとそれとは異なる様相です。
従前の形を世襲しながら改訂版と絡んで進んで行った様です。 従って、今迄の説明は一旦白紙に戻したいと思います。 新たに判明したらまた投稿したいと考えます。 では。
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by micmacbig
| 2018-12-09 17:39
| 田沼古道関連
相良大江地区の防災センター横に架かる「江湖橋」であるが、当然現在では車での通行可能な橋である。
が、意次氏はここを通らずぐるっと山側を回って駿遠線と絡み合う様に進んで行ったのには大井川町の相川地区と似通っている。 真っすぐ進めない地理的な物が要因となっている事が考えられる。 それを確かめる為に再度牧之原市役所を訪れた。 すると、予想した通り当時はここには橋は無く川幅も広く流水量も多かった様だ。 従って直進出来ず大きく迂回を余儀なくされたと断定出来る。 ここに相良地区の進路はほぼ決定的となりそのまま榛原、青島と繋がり勝草橋の袂で東海道と合流して約3日の短縮に成功して江戸に帰った事となる。
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by micmacbig
| 2018-12-07 17:18
| 田沼古道関連
明治20年の地形図を見ると、相良の萩間川に向かう旧道と呼ばれている道が直角に曲がっている感が有る。
現在は150号線かの信号から斜めに進んでいるが果たしてこれは?と思い、牧之原市役所に出向いてみた。 明治時代の公図である。 榛原から西進している横須賀街道は当時はこの様にクランクで曲がり相良城に進んでいたと見られる。 推測であるが、後代になって不便さを感じ、新しい斜めの道を建設したと思える。 そして、そのまま萩間川沿いに進み神谷宅の西側を通り、駿遠線と絡み合いながら進んでいた。 それらを結びつけると田沼古道とはズバリ相良街道、横須賀街道で有る事が断定的となって来た。 古地図で楽しむ駿河・遠江より 「遠淡海地志」 恐らく山側の道を進んだと言う説は何かの話しが尾ひれ等が付いてある意味誇張された形でおらが村の田沼街道と人々に伝承されたんではないでしょうか? 絵図等を見ても山側には道らしい物が見当たらない。 意次氏は経費節減、時間短縮を旨に下瀬越えを敢行した。 江戸からも馬や家来が複数で荷物その他を相良城に運び入れた。 等等の事を基にすれば山側の狭い道は使わないだろう。 横須賀城に通じる官道が有るのにも関わらず。 本日の推測論です。 尚、後述ですが飽くまで推測を基にした個人の記述ですので真実は意次氏のみぞ知る!です。
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by micmacbig
| 2018-12-06 18:21
| 田沼古道関連
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