焼津の小川城

150線の山政前のバス停の名前を見ると「縦小路」との言葉を見出した。
さて、縦とは??小路とは???
ムクムクとしたものが出てきて聞いてみると昔の小字で、その辺りを「縦小路」と読んでいたそうです。
が、その謂れについては不明とのこと。
城之腰の田子橋の処からローソンの横を通り、斜めに真っすぐの大富街道まで進んでいる道を「縦小路」と称している。

では、何故「縦」なんだろうか?
思いつくと、嘗て「小川城」というものが有ったと聞いたことがある。
これと関連していないであろうか?と推測してみた。

で、「小川城」たる物をググってみると、城というより豪族の屋敷であった。

場所も提示されているので早速足を運んだ。

法務局の西側辺りとのことで目的地まではすんなり進めた。
それは、遊歩道に一角に派手さもなく佇んでいた。

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焼津市西小川(にしこがわ)3~6丁目は、古くから「法永長者屋敷跡」と言い伝えられてきた。
「法永長者」とは、今川義忠(1436~1476)が急死し、今川氏の相続争いが生じた時に、伊勢新九郎(北条早雲)を介し、義忠の正妻北川殿と義忠との子竜王丸(後の今川氏親:1473~1526)を保護した人物である。その後、法永の子孫(長谷川氏)は今川の家臣となり、今川氏滅亡後は徳川氏に仕えたと伝えられている。
昭和54年(1979)からの発掘調査により、屋敷の周囲に堀を持つ本格的な中世屋敷跡が見付かった。調査の結果、屋敷の周囲にも多くの建物跡が広がり、下層部には古墳時代や平安時代の遺構もあることが分かった。現在は遺跡全体を「小川城遺跡」と呼んでいる。
屋敷の周囲には長大で複雑な堀を巡らしており、単なる屋敷ではなく、戦闘に対する防御機能を備えた城郭的構造になっている。素掘りの堀は幅が15~16m、深さが1~2.6mある。また、この堀の内側や外側の一部にも、細い堀が巡っていて、堀の形態が変化していたことを知ることができる。
屋敷内部は、長辺150m、短辺90mで、約13,500㎡の広さがあり、堀(溝)によって3つに区画され、母屋・倉庫などの建物が配置されている。屋敷の周囲からも多数の建物跡や、井戸があり、屋敷からは国産の陶器や中国産の輸入陶磁器、漆器や曲物などの木製の生活用品、刀・釣針・古銭などの金属製品、斎串・呪符・人形・舟形というような呪術資料などが豊富に出土し、往時の繁栄がしのばれる。これらのことから、当地が物流の拠点としての小河湊を背景に、室町時代の大井川平野の中心地として賑わっていたことがうかがえる。
この小川城遺跡の出土品は、焼津市歴史民俗資料館に展示・保管されている。
  
  と説明板には記述されている。
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確かに近所には「竪小路団地」とか「竪小路公園」(竪の字も使われたらしい)と名前が見受けられる。

またこの西側には「西小路公園」とあるので「西小路」も存在していただろうと推測がつく。

従って、この長谷川家の屋敷から物流の中心であった「小川港」を繋ぐために作った道路ではないだろうか。
そして現在では大富街道で分断されているが当時は真っ直ぐ1本の道であったに違いない。

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また、商業の発達により各地から商いのために旅人が多くこの地を訪れていた。
それらの為に宿場も開けていた。
その名残が現在の地名にも反映している。
大富街道沿いの農協の隣は「小川宿局」という郵便局があるし、いちょう通りには「小川宿」というバス停もある。
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が、公的なその謂れを記載した資料は見受けられない。
郷土史としての観点で箱物ばかりではなく、行政がこれらを整理して後代に残すことが必要ではないかと考えるのは当方のみであろうか?
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by micmacbig | 2010-04-02 04:46 | 地元・地域関連 | Comments(0)
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