第1楽章 いほはらへの道のりはイバラだった。 

明治中期になると雨後の筍の様に省線目指して軽便鉄道が網の目の様に発展したのは駿遠線同様である。
庵原郡の衆議院議員だった肥料会社経営で衆議院議員でもあった西ケ谷は我が村にも鉄道をと有志を募り晴れて江尻駅から庵原金谷までの軽便鉄道を建設した。
が、個人経営の様な小さな会社故資金繰りが困窮して僅か3年弱で解散した超短命の軌道で有った。

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この田舎と言う事と超短命と言う事で正式な資料が殆ど存在していない事でも有名である。
大きくは清水中浜町(現在では江尻東3丁目)から東進して庵原に向かった事は様々な記録が有るが果たしてその正確なルートは不明のままであった。
生まれ故郷と言う事も有り多少の地理感は有るが何と言っても庵原郡辻村の時代である。
ましてや1世紀にも遡る時候であるのでその存在さえも知らない方が殆どであった。
この辺は前回の大倉組のトロッコ路線と掻痒で有るが・・・



で、様々な資料を集取して調査に乗り出す事にした。
先ずはアナログ調査であるが当然の事ながら知っている方も居らない状況の中、辻町のお酒屋さんで大姑さんから隣りの小道の所を走っていたと聞いた事が有るとのお話を頂く。
近隣で何件か伺うが矢倉の大通りと聞いていたと話す方も有った。
何の道ご自分の目で見たからはこの世には居らないので何処迄正確に聞いたかが問題となる。

鉄ピク誌に山崎氏が論説を投稿しているが数有る解説の中で一番正確で詳しいと感じる。
その文中各々のポイントの住所を記載してあるが当然当時の住所でありその住所を法務局で分析しても判明しない位でなので将にお手上げである。
従って仮定法を積み重ねて行くしか道は無い。
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先ずは起点とされている割烹「大花」で聞き込むが聞いた事も無い・・・
向かいで聞き込むがこれまた聞いた事が無い・・・・・
と有るホームページに写真屋さんその辺を通っていたと聞いたとされる写真屋さんも代が変わったのか知らない・・・・
将に八方ふさがり状態だ。

そんな中「辻村誌」という公文書の中に絵図を見出す。
そこには「軌道会社」との固有名詞が記載されていて大凡「大花」辺りを指していた。
そこから、点線で軌道が描かれ辻の酒屋さんに教えてもらった小道と思える所を抜けて矢倉さんを右に眺め秋葉さんから庵原に向かっている。
これは国土地理院発行の地形図と同じ形状と思える。

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by micmacbig | 2018-08-09 18:47 | その他の鉄道 | Comments(0)
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