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果たして「田沼古道」は。

ウォークに行った「田沼古道」でしたが、序盤のみで最終編は相良城に到着です。
そのルートですが、前述した様に廃線路とは異にして確定的な根拠の無い物をあれこれ推測と伝聞等に依り繋ぎ合わせた物が発表されている「田沼古道」の道すがらで有る。
各申す当方もそれらを元にして明治年間の公図と照らし合わせ此所では無いかと推測した古道を構築した。
何分、意次氏が辿った古道は唯一江戸に帰った際の一回のみしかないのでその足跡を辿る事は意次氏本人に「ここを通ったんだよ!」と証言してもらうしか真実は掴めない。
が、物理的に超不可能な事なので推測論を積み重ねて行くしか真実には近づけない。恐らくではあるが、藤枝から榛原迄は大凡出回っているルートに相違無いと感じる。問題は、勝間田川を超えてからの相良迄のルートである。勝間田川の超えると、鹿島神社が有る。そこから山側を進んで八幡神社や若宮さん等の寺社を経由して大鐘家の前を通って相良に抜けたと言う話しが主流となっている。確かに、そのルートは趣きも有り、野趣にとんでいてらしい道と感じていた。が、視点を新たにして見ると果たて真にこのルートで意次氏が帰京したのはが疑問となって来た。確かに従前の道を拡幅して整備して、街道とした事は実証されている。それで足りない部分は里道等を繋ぎ合わせて街道として完成させ、何時しか民衆から彼を讃えその道が「田沼街道」と称される用になった事は有名な話しである。

そして、現在開催されている田沼意次展には;角村々の古地図が紹介されている。これを、素人目で見ると、現在古道と言われている道は描かれていなくて主要な道である下街道しか姿が見えない。これは何を意味するんだろうか?推測の一つであるが意次氏がこのルートを選んだのは少しでも時間短縮と経費節減の為と聞く。当時横須賀城から駿河城迄の下街道は例え3尺巾とは言え存在していた事は明らかである。従ってわざわざ山側の小道を行ったんだろうか?が焦点となる。市役所から入手した公図で赤道を落としてみました。

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大概近隣の古老はこの道が古道で有るとのお話を頂いた。逆に赤道では有るがこの道では無くあの道とのお話しも頂いた。が、兎に角お話の世界での話しで、当然公図の中にも古道との固有名詞は無い。飽くまで赤道が有るだけです。従って言えるのは真の根拠は無い!の一言です。まだまだ、先の有る展示会です。どうぞ、相良資料館にお出で頂き意次氏の足跡を堪能して下さい。

by micmacbig | 2018-11-26 09:30 | 田沼古道関連
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