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当初の道すがらだった様です。

訂正場所が有った古道ですが改めて再考してみました。土地宝典、法務局の旧公図、牧之原市の旧公図そして、江戸時代の村絵図を照合してみました。
すると、結論は数年前ここだと近隣の古老達に教えて頂いた道すがらが中心でした。

大江地区の駿遠線と絡み合う様に進んで来た古道はお墓の所から真っすぐに萩間川に進みます。
何故に、大きく山側に迂回したんでしょうか?
それは、前回述べた如く防災センター横の江湖橋が米蔵に運び入れる為船着き場で有ったと予想されます。
そして、旧道を東に向かい、150号線に斜めに入る所からやおら山側に進み道なりに細き道を進んで行きます。
現在は車での進行は不可能で歩くしか出来ない道です。

程なく進むと小さな交差点?に出会います。
ここの場所にその昔東藤枝、北金谷の感じの道標が有りましたが何時の頃か消滅したそうです。 残念!!
さて、道は左にカーブして進んでおりますが、古道はこつ然とそこから消え民家の中を進んで行きます。
ここからは、成る程この辺かと眺めるしか有りません。

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そして、民家を超えると新たな道が出現して東に進んでおりますが、道は道ですが残念な事にここからは私有地となって正式には進めません。
図面を見ると、家々の並びは均等となっておりますので道が有る事は想像出来ますが私有地故道としての存在は有りません。

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まあ、ある意味古道の醍醐味とでも言いましょうか。

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そして、問題は何故にこんな山側の狭い道を行ったのか?です。
現在の150線は当然無く、相良街道を有りませんでした。
が、ここを行くしか無い理由は推測の域ですが海岸沿いに大きな砂山が並び立ち当時ではとてもそこを歩けなかったと考えられます。
これは、浜岡地区で駿遠線が砂丘を避けてクネクネと進まざるを得なかった姿と共通しております。
従って、旧道への斜めの道辺りから坂井のKレディー辺り迄は松の生い茂った砂山が点在していた様です。
その現れか、この地域には「濱山」と言う小字が有りました。
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同じ位の場所の土地宝典(昭和7年)
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このきちんと区画されている所が当時の砂山と想像されます。
それを明治の時代に砂丘を整地して区画したでしょう。
著作権の関係で村絵図を出す事は出来ませんが坂井の村絵図には緑でこの辺が記され畑地さえも無かった事が頷けます。
この辺はやはり浜岡地区と共通ですね。
余談ですが、軽便路線が描かれていてふくらみの有る所が「太田浜」の駅です。
そして、先程の大江地区に入りますがここの接続が意次氏が江戸に帰った後使う者も無しに荒れ放題となり野道同様で道が消滅したと考えられます。

まあ、謎ばかりの方が面白さは有りますね。


by micmacbig | 2018-12-16 18:41 | 田沼古道関連 | Comments(0)
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