カテゴリ:その他の鉄道( 110 )

役場前駅 再考

現在出回っている「役場前」駅に関し、大凡は賤機南小学校西側の道路と記載して

有るのが多々見受けられるがが、これは後代に造られた静岡市道であり、

廃線路ではない。従って、この道路上に駅は存在していない。

先ず、「御新田」駅と「福田が谷」駅手前の水神橋の築堤とを直線で結ぶと、

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市道の東側、小学校の校内に位置する。

また、小学校のHPにはこの様に記載されている。

 http://www.shizuhataminami-e.shizuoka.ednet.jp/

昭和10 4 1

安倍鉄道の敷地を購入し校地拡張

2.稲葉菓子店 稲葉とよ様の手記より。

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1946年の航空写真より

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中央の白い線は安倍街道

黄色の点線が其処を繋ぐ道路。

☆土地宝典より

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れを現在の現在に置き換えると


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従って、役場前駅は

現在の松富2丁目1076

辺りに有った。


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by micmacbig | 2018-09-06 06:12 | その他の鉄道 | Comments(0)

庵原軌道 アンコール

「ラーメン終止」で結末の「庵原軌道」だが、精査不十分な点が有り気になり再調査に出かけました。
「神明前駅」の位置を「アリンコ」と解釈しておりましたが、地形図。土地宝典を見比べるとやや異なる感がしました。
それと、静岡新聞に載っていた「東ドレスメーカー」の裏手を・・との言葉が気になり県立図書館のメイクロフィルムを調べに。
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先ず、現地調査、
このお宅の玄関部分が道路と違和感を感じていた事。
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地形図から郡道まで少し余裕の有る事。
(アリンコだと郡道に接する)
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で、此所のお宅に眼をつけお伺いするとご主人が居られ庵原軌道は知っている。自宅が駅で有ったとお父さんから聞いた事が有る。
その昔お母さんがこの場所でドレスメーカーをしていた。
その現れとして当時の看板?が保管してあった。
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これらから、このお宅が「神明前駅」で有った事が証明された。
(とは言っても公的証明が存在していないので飽くまで 思われるの世界だが)
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では新聞にはどの様な形で記事になっていたんだろうかとマイクロフィルムを紐解いてみると、
記事としてではなく単なるコラム。であった。
そして、これは某「静岡**史」と同文である。
幾多の方々がこの書籍を読んで勘違いをし続けたんでしょうか。
見れば、笑っちゃう様な記述のオンパレードである。
はっきり言って勘弁して欲しいですね。
この様な作文は。
末尾に補足して頂きたい物です。
(これはノンフィクションです)と
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まあ、お陰で新しい事実を掴めましたので感謝はしております。

庵原軌道の時刻表です。
ここからビックリする程のダイヤであった事が伺われます。
今の清水・静岡線よりも多いんではないでしょうか。
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by micmacbig | 2018-09-03 06:00 | その他の鉄道 | Comments(2)

庵原軌道 最終楽章 ラーメン食べて金谷に到着

バイパスから終点「金谷」迄はバス通りそのもので興味も湧かずにいましたが、改めて行って来ました。

現在の人口でも利用者は居るんだろうか?と首を捻りながら進むがまず無理でしょうの感である。
で金谷のバス停に着く。
近隣で聞き込みをするが、やはり知らないの声が殆どであった。地元でさえそうだから街場では当然ですね。
兎に角言えるのは現在乗車した方は別な世界ですのでお父さんから聞いたとかお爺さんから聞いたが一番近い話となる。
見た事の有る方が100%話しても聞き手には80%しか伝わらない。その次に方に話すと64%に減少する。
全ての人が子に話した訳でもないのでその比率は更に下がり、形は変容して行く。従って、現在聞き込みに行くととんでもない事を話す方が居るのも無理は無い。
公式な資料が皆無的なこの鉄道ですので有るのは例え僅かでも多くのお話しを聞いてそこから真実を見出すしか方法は無い。

何処何処の書籍にこの様に書いて有ったからと言ってそれを即信じるのも問題が有る。
「なになにである」と断言する表現には必ずその引用とか証明が必要である。
それらを記載していなく断言しているのは「見て来た様な**」の例えの如くと思われる。

その1例が「静岡県**史」であろう。
如何にも正確な書と思われる題名が幾多の間違いを引き起こしている。
「辻の生い立ちと今」「辻小学校100年史」「金谷の里」・・・

歴史を辿るにはその時点に戻って確認する事は物理的に不可能である。
従って幾重にもデータ、資料を入手して考察するかしかない。
歴史論は推測論であるとと言っても過言ではないと思っている。

断定要素が薄い場合は**と思われる。とか**近隣とかの一種の曖昧さは必要条件となる。
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このラーメンで最終楽章のフィナーレを迎える事とする。
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「ラーメン終止」



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by micmacbig | 2018-08-30 05:58 | その他の鉄道 | Comments(0)

庵原軌道 第4楽章 勾配を感じながら西久保へ

秋葉道を段々と上り勾配を感じながら登って行くと東側に「矢倉神社」が有る。
ここは草薙神社とも関係が有り、かの「日本武尊」を奉っている。
そして、その北側には辻の地名ともなった「矢倉の辻」の存在が有る。
見れば狭っこましい場所であるがここを起点に東海道、港への道、庵原郡衛方面への道と重要なポイントとなす。
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軌道はその先、5叉路にぶつかると北東方面に進んで行く。ここに「秋葉道」の駅が有った。
その道を更なる勾配を感じながら進むと、新幹線が見えて来る。
この角にスーパー「サカマル」を見る。その昔は「鈴木製材」であり、その北西側に「西久保」の駅が有った。
恐らく、公園となっている辺りと思われる。
大きな柳の木が有り、切符売り場や待合室が建っていたと言う。その傍には給水施設や灰捨て場も有ったと言うのでかなり大きな駅と察せられる。
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さて、此所迄は現在の道を進んでいた事は確証が取れているが、ここから明神に向かっては現道と記載されている物を多く見る。
当初は私もそうだと信じきっていた。(知らなければ当然の理である。

ここで辻在住のK氏に知り合い案内をして頂いた。
土地宝典を見て行くとどうもそうでは無さそうな感が有り大雑把な線を引いてみるとかなり地形図の路線は海側に弧を書いて居る様である。
「袖師村沿革誌」に依ると、字笛吹、諏訪上、舞台大屋敷を通り神明に向かうとの表現が有る。宝典には当時の字が記載されているので
見てみると何となく地形図の路線の様な弧を感じる。
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軌道は公園から現道とは離れて進みこども園の海側に沿って進み程なくして左にカーブしながらポートガーデンの駐車場辺りから東公園と進み袖師中学校の裏門辺りに出て西久保121の駐車場辺りに進んだ。
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この辺は当時は畑ばかりであり目印の無かった地域である。
それ故に都市計画で住宅地と化して廃線路は家々の下敷きになった良く有る地域でもある。
従って廻りから推測するしか無い。
アバウトですがこんな感じでしょうか?
右側の写真は1961年の航空写真です。
何となく家々の並びがそれを感じさせます。
(私が感じるだけかもですが・・・)
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ここに「神明前」駅が有った。
車では左程感じないが歩いてみるとかなりの勾配を感じる。
ここら辺りは「安倍鉄道」を彷彿させる。

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by micmacbig | 2018-08-27 06:00 | その他の鉄道 | Comments(0)

第1楽章 いほはらへの道のりはイバラだった。 

明治中期になると雨後の筍の様に省線目指して軽便鉄道が網の目の様に発展したのは駿遠線同様である。
庵原郡の衆議院議員だった肥料会社経営で衆議院議員でもあった西ケ谷は我が村にも鉄道をと有志を募り晴れて江尻駅から庵原金谷までの軽便鉄道を建設した。
が、個人経営の様な小さな会社故資金繰りが困窮して僅か3年弱で解散した超短命の軌道で有った。

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この田舎と言う事と超短命と言う事で正式な資料が殆ど存在していない事でも有名である。
大きくは清水中浜町(現在では江尻東3丁目)から東進して庵原に向かった事は様々な記録が有るが果たしてその正確なルートは不明のままであった。
生まれ故郷と言う事も有り多少の地理感は有るが何と言っても庵原郡辻村の時代である。
ましてや1世紀にも遡る時候であるのでその存在さえも知らない方が殆どであった。
この辺は前回の大倉組のトロッコ路線と掻痒で有るが・・・



で、様々な資料を集取して調査に乗り出す事にした。
先ずはアナログ調査であるが当然の事ながら知っている方も居らない状況の中、辻町のお酒屋さんで大姑さんから隣りの小道の所を走っていたと聞いた事が有るとのお話を頂く。
近隣で何件か伺うが矢倉の大通りと聞いていたと話す方も有った。
何の道ご自分の目で見たからはこの世には居らないので何処迄正確に聞いたかが問題となる。

鉄ピク誌に山崎氏が論説を投稿しているが数有る解説の中で一番正確で詳しいと感じる。
その文中各々のポイントの住所を記載してあるが当然当時の住所でありその住所を法務局で分析しても判明しない位でなので将にお手上げである。
従って仮定法を積み重ねて行くしか道は無い。
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先ずは起点とされている割烹「大花」で聞き込むが聞いた事も無い・・・
向かいで聞き込むがこれまた聞いた事が無い・・・・・
と有るホームページに写真屋さんその辺を通っていたと聞いたとされる写真屋さんも代が変わったのか知らない・・・・
将に八方ふさがり状態だ。

そんな中「辻村誌」という公文書の中に絵図を見出す。
そこには「軌道会社」との固有名詞が記載されていて大凡「大花」辺りを指していた。
そこから、点線で軌道が描かれ辻の酒屋さんに教えてもらった小道と思える所を抜けて矢倉さんを右に眺め秋葉さんから庵原に向かっている。
これは国土地理院発行の地形図と同じ形状と思える。

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by micmacbig | 2018-08-09 18:47 | その他の鉄道 | Comments(0)

大倉組製材工場 アンコール

最終章で壮大なフィナーレを迎えたこの大倉組ですがその後の調査でやはりこの養護学校の地に大倉組の工場が有った事が法務局の書類で確定となりました。
「静岡県木材史」等の書籍や、古公図、地元の古老の伝聞等からかの地に有ったとされていましたが、先日法務局の土地台帳を紐解くと該当地版にしっかりと「大倉組」の所有したとの戸籍が記載されていました。

これらの、書籍、公図、伝聞に合わせてこの広大な地に工場の稼動が有った事を証明致します。

現在のブルーマップ
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旧公図
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台帳の一部
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該当部分の拡大
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法務局の証
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大倉組が所有していた地番の各々
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やれやれです。







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by micmacbig | 2018-07-01 06:41 | その他の鉄道 | Comments(0)

大倉組トロッコ軌道 最終楽章(恐らく)

手探りでの大倉組トロッコ軌道探索であったが本日地元の古老からの証言を得て恐らくこれが最終予想と思われます。
兎に角正式、公式なデータ。図面無しでのスタートで法務局での古公図と土地宝典。航空写真からの情報と近隣の聞き込みの点と点を繋いでの
探索であった。
ここは、浜野の陸軍射撃場へのトロッコ路線と共通しているがこちらはある程度資料も有ったし時間的にもまだ数十年前の事項であるが今回は1世紀もの時間が経緯した案件であるので人々からの情報も希有に等しい案件である。

大凡は入手出来る資料からラインは表現出来るが詳細な部分はどうしても欠如する。

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そんな中本日地元の古老から有益な証言を得られた。
50数年前嫁いで来た古老はその大おばあちゃんからこの話を聞いていた、そして覚えていた。
話の依ると、現養護学校の場所に大倉組の製材工場は有った。
大きな貯木場が有り川を利用して島田の方から木材を流して製材していた。
それをトロッコで運んだ。

将に「木材史」そのもののお話である。

これらから、先の古老の話、古公図の赤道と橋らしき表示、を合わせると確かにこの地に製材所が有った事が証明出来る。
近隣の古老はこの養護学校の地区を「おおくら」と呼んでいたそうです。
また、ここからの軌道も「トロッコ道」と称して駅方面への通行に利用したそうです。
各地に軽便等の廃線路を「けいべん道」とか「電車道」と称していたのと同様である。

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トロッコはこの赤道を北上して古老の家の直ぐ隣りを田圃のあぜ道としてしっかりと残っている。
現在は家々に囲まれ公道としてその場所に行く事は不可能です。
当方は案内して頂き古老の家の中を入り裏木戸からあぜ道に案内してもらった。
そこから、住宅の中を進み、ようやく車でも走れる廃線路が現われる。
この地区は斜め道がクロスする様に絡み合い一つ間違うと違う場所に行ってしまう感じの
場所となる。

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そこからまた、住宅地に行く手を阻まれ大回りをして廃線路に戻りこの路線の中でも一番らしい箇所が迎えてくれる。
当然軽自動車やっと位の道なので前方からやってくるとバックして譲り合わなければならない。
其の感じが如何にも廃線路のダイナミックさである。

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其の姿がこの動画で有る。






が、その興奮度も現在の都市計画の中に夢の一夜で終演して新しい住宅街が出没する。
従ってそこを通る事は不可能であるがこの家のこの辺を通っていたんだなと想像するのがまた楽しみである。
ローソンの東側の田圃から焼津信用金庫の東側を抜けて現在の県道に出会う。
其の県道の東側部分を北上してくと眼前に藤枝製紙を見定めるこの工場は現在の高架橋の有る県道から見ると東北に斜めに設置している
これは、良く有る姿であるが製紙工場が当時有った道に沿って造られ後代に都市計画で真っすぐなラインの県道が建設されたので
この様なある意味いびつな光景を生んでいる。
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従ってこのセンプクの前辺りが異様に拡い歩道部分が存在している。
これは廃線路と新たに建設され造られた県道の歩道部分とのコラボではないでしょうか!

この「斜めの線」こそが駿遠線を筆頭に当時の姿を表している大変美しい線である。
そして、路線は完全に都市計画された住宅地に遭遇しその当時を偲べる物は皆無となる。
が、ここに当時廃線路と並んで流れていた水路が有り、その痕跡とも言える道路とやや振っているグレーティングが有った
これはまだ推測の段階であるが当時から有った水路を暗渠にした姿ではないだろうかとワクワクしている。

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そして、終焉を向かえトロッコ路線は省線に平行して駅に通じて貨物を詰め変えた。。

が、推測の世界では有るがストーリーと考えている。

兎に角公式、正式な物では無く全てが推測論での話である。

一応公的な資料として、大洲村誌には製材所が有ったとの記述は有るが言葉のみである。
また、東海パルプ90年誌にも軌道で駅まで運んだとの記述は有るがそれのみである。

公図関連も嘗てこの様な道が有りましたのみでかの「横井軌道」の様な軌道などの記述も無い。

兎に角無い無いずくしであった。

一応これが最終とするがまだ新しい事実が出て来て再最終楽章を書きたい物だと願う次第である。

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by micmacbig | 2018-06-10 17:06 | その他の鉄道 | Comments(0)

大倉組製材工場 第3楽章

路頭に迷った大倉組であるが市役所からの古公図で該当番地を紐解くと現在の駅からの県道の位置となる事が判明した。
従って南北伸びた白い線はこの県道を表している線となる。
その間の場所には赤道は記載されていないので取りあえず矛先を養護学校に絞り精査してみた。
かの場所は、近隣の古老の話し、「静岡県木材史」と合致する。
そして、南側に有る新川は島田市に入ると「芝地川用水」として現在も其の名が残されている。

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ここで、何かが出るかと法務居に出向き紙図をを見出す。
すると、これが何を示すのかは不明であるが該当地区から栃山川を超えて北に伸びる赤道が有る。
軌道跡と考えても可笑しく無い線である。
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赤道と赤道の間の栃山川上には橋とも解釈出来る白い線が有る。


が、1646年以降の航空写真を見てもこの地点での橋的な物は確認出来ない。
それも当然と思われる。明治の中期に工場を閉鎖して軌道も用途無く廃線となったので橋も撤去した事は
用意に想像出来る。
当然、何人かの方にお聞きしてもこの辺りに橋は無かったよの返答であった。
                   
1946年

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1962年
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1988年
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1946年の→は当初橋と思い込んだがどうも異なる様だ。

物的証拠の無い過去の物を蘇らせるのは推測論や仮定法をの積み重ねとなる。

市役所関連でも、法務局関連でも当然近隣関連でも知る人はいないこの将に幻の軌道である。

従って偏在の時点では未解決の軌道で有る。


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by micmacbig | 2018-05-25 19:20 | その他の鉄道 | Comments(0)

大倉組製材工場 その2

判明しないが今回ものテーマであるが、本日「東海パルプ 60年」誌を紐解いてみた。
まあ、木材史含め元データは大体一緒なので書き方も類似しているのは致し方が無い。
この60年誌に依ると大倉はかの地に8町歩の土地に製材場を建設したと言うからその広大さは恐るべきである。
1町歩が3000坪故2,4000坪なる広大さである。
地目は田であるので単価は安いが仮に坪1万円としても土地代だけで2億4千万もの投資だ。
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果たして、この製材場は一体何処に有ったのか?
近隣の古老は現在の養護学校の所と説明してくれた。
確かに栃山川と新川に鋏まれ、静岡県木材史とは合致する。
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仮にこことすると、軌道は一体何処に。
古公図の線はもっと東である。
出所が同じと思える「木材から」誌と「60年」誌は
栃山川と木屋川の交点の東を示している。
これは公図とも合致していると思える。
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(尚、赤線は単なるメモで意味は無いです)

タイムマシーンが欲しい物だ。



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by micmacbig | 2018-05-23 17:58 | その他の鉄道 | Comments(0)

謎のトロッコ路線 大倉組?

横井軌道を調べて行くうちに段々と左右に視点が拡がり本来の姿とは変わって行く事は良く有る事です。

木馬道を調べる為に購入した「木材から再生紙展」誌に興味深い内容が有った。
我が藤枝に大倉組の製材所が有ったとの事。
地図で見ると、現在の明誠高校の近隣で有る。
大井川上流で切り出した木材を栃山川から木屋水門を通じ現小川港まで運び海運で江戸まで運んだとの事。
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また「島田木材業発展史」に依るとそこから藤枝駅迄軌道と敷いて木材を運んだとの事。 
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これは、大変興味ある内容である。
が表面には出ていない内容で素有るので例に依って手探りで調べて行くしか無い。
近隣の古老に訪ねた範囲では知らないとの返事のみであった。
まあ、当然の事でしょう。

そこで、市役所にて古公図を紐解くとこんな図面が見つかった。
固有名詞は書かれてはいないが何やら怪しげな線(面)が有る。
一体これは???
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この地区は昭和30年頃の土地改良で物の見事に過去を埋没させた地区で何が何だか分からない地区である。
ちなみに法務居でも同様な図面を見たがかえって煩雑さを感じた。
此の図面は該当する一部故チンプンカンプンですが、南は栃山川まで此の線が通じ何やら軌道的な要素は醸し出している。
1946年の航空写真を見ると。この栃山川と木屋川との間に何やら工場的な物を感じる。
これが製材所の成れの果ての姿なのか?
立地的に見れば大井川から栃山川で此所迄運び製材して、両川に流し入れ水運で運び出したと考えられる。
すると、この南北に描かれている線は駅迄の軌道と考えても可笑しくは無い。
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Aの線が駅から伸びている県道。
Bがでは無いかと思われる里道。


製材所が何時頃存在していたかは不明であるが、
運ぶ要素も終了してその軌道が生活道路に変身する例えは駿遠線も含め多々存在する。
1946年以前のデータが無いので比較は出来ないが、明治年間は住んでいる方も希少の地域と考えられる。
そして、時代が進み生活道路が完成するとそこに人が集まってくるのは自然な姿である。

このBの道路を北に進んむと数軒の民家が有る。
よく見れば家々の西側には道が存在している。
が土地改良に依って現在ではこの道は消滅している。
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現在では無いが、1946年には有ったと言う事はそれ以前も有ったと想定出来る。
そして、この里道は変形はしているが栃山川迄行っている。

ここがトロッコ路線と断定は材料不足で言えないが思いたい!が心境でしょうか。




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by micmacbig | 2018-05-20 08:11 | その他の鉄道 | Comments(0)