カテゴリ:田沼古道関連( 36 )

当初の道すがらだった様です。

訂正場所が有った古道ですが改めて再考してみました。土地宝典、法務局の旧公図、牧之原市の旧公図そして、江戸時代の村絵図を照合してみました。
すると、結論は数年前ここだと近隣の古老達に教えて頂いた道すがらが中心でした。

大江地区の駿遠線と絡み合う様に進んで来た古道はお墓の所から真っすぐに萩間川に進みます。
何故に、大きく山側に迂回したんでしょうか?
それは、前回述べた如く防災センター横の江湖橋が米蔵に運び入れる為船着き場で有ったと予想されます。
そして、旧道を東に向かい、150号線に斜めに入る所からやおら山側に進み道なりに細き道を進んで行きます。
現在は車での進行は不可能で歩くしか出来ない道です。

程なく進むと小さな交差点?に出会います。
ここの場所にその昔東藤枝、北金谷の感じの道標が有りましたが何時の頃か消滅したそうです。 残念!!
さて、道は左にカーブして進んでおりますが、古道はこつ然とそこから消え民家の中を進んで行きます。
ここからは、成る程この変化と眺めるしか有りません。

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そして、民家を超えると新たな道が出現して東に進んでおりますが、道は道ですが残念な事にここからは私有地となって正式には進めません。
図面を見ると、家々の並びは均等となっておりますので道が有る事は想像出来ますが私有地故道としての存在は有りません。

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まあ、ある意味古道の醍醐味とでも言いましょうか。

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そして、問題は何故にこんな山側の狭い道を行ったのか?です。
現在の150線は当然無く、相良街道を有りませんでした。
が、ここを行くしか無い理由は推測の域ですが海岸沿いに大きな砂山が並び立ち当時ではとてもそこを歩けなかったと考えられます。
これは、浜岡地区で駿遠線が砂丘を避けてクネクネと進まざるを得なかった姿と共通しております。
従って、旧道への斜めの道辺りから坂井のKレディー辺り迄は松の生い茂った砂山が点在していた様です。
その現れか、この地域には「濱山」と言う小字が有りました。
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同じ位の場所の土地宝典(昭和7年)
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このきちんと区画されている所が当時の砂山と想像されます。
それを明治の時代に砂丘を整地して区画したでしょう。
著作権の関係で村絵図を出す事は出来ませんが坂井の村絵図には緑でこの辺が記され畑地さえも無かった事が頷けます。
この辺はやはり浜岡地区と共通ですね。
余談ですが、軽便路線が描かれていてふくらみの有る所が「太田浜」の駅です。
そして、先程の大江地区に入りますがここの接続が意次氏が江戸に帰った後使う者も無しに荒れ放題となり野道同様で道が消滅したと考えられます。

まあ、謎ばかりの方が面白さは有りますね。


by micmacbig | 2018-12-16 18:41 | 田沼古道関連 | Comments(0)

どうも訂正の様です。

完成と思われた古道のルートですが、新たな資料に依るとそれとは異なる様相です。
従前の形を世襲しながら改訂版と絡んで進んで行った様です。
従って、今迄の説明は一旦白紙に戻したいと思います。

新たに判明したらまた投稿したいと考えます。

では。

by micmacbig | 2018-12-09 17:39 | 田沼古道関連 | Comments(0)

恐らくこんな感じでしょう 相良地区

相良大江地区の防災センター横に架かる「江湖橋」であるが、当然現在では車での通行可能な橋である。
が、意次氏はここを通らずぐるっと山側を回って駿遠線と絡み合う様に進んで行ったのには大井川町の相川地区と似通っている。
真っすぐ進めない地理的な物が要因となっている事が考えられる。
それを確かめる為に再度牧之原市役所を訪れた。
すると、予想した通り当時はここには橋は無く川幅も広く流水量も多かった様だ。
従って直進出来ず大きく迂回を余儀なくされたと断定出来る。
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書籍 古地図で楽しむ 駿河・遠江にこの様な絵が転載されている。
これを見ても川幅の広さを感じ、橋の無い事が描かれている。
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ここに相良地区の進路はほぼ決定的となりそのまま榛原、青島と繋がり勝草橋の袂で東海道と合流して約3日の短縮に成功して江戸に帰った事となる。

by micmacbig | 2018-12-07 17:18 | 田沼古道関連 | Comments(0)

新たなルート まだまだ先は見えない。

明治20年の地形図を見ると、相良の萩間川に向かう旧道と呼ばれている道が直角に曲がっている感が有る。
現在は150号線かの信号から斜めに進んでいるが果たしてこれは?と思い、牧之原市役所に出向いてみた。
明治時代の公図である。
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すると、赤色の道が2本(種類)見出せるが、現在の斜めの道は色も薄く地番も存在している。
それに対し直角に曲がっている道は色も濃く地番は無い。
これはその当時以前から道として存在していた事を示している。
榛原から西進している横須賀街道は当時はこの様にクランクで曲がり相良城に進んでいたと見られる。
推測であるが、後代になって不便さを感じ、新しい斜めの道を建設したと思える。

そして、そのまま萩間川沿いに進み神谷宅の西側を通り、駿遠線と絡み合いながら進んでいた。
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とすると、駿遠線との交点は以前ここであると思っていたお墓の所では無く、駿遠線が歩行者専用道路となる旧道との交差点と思える。

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この横須賀街道はそのまま福岡の町から旧道を進んで横須賀迄続いている。

それらを結びつけると田沼古道とはズバリ相良街道、横須賀街道で有る事が断定的となって来た。

古地図で楽しむ駿河・遠江より
「遠淡海地志」
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恐らく山側の道を進んだと言う説は何かの話しが尾ひれ等が付いてある意味誇張された形でおらが村の田沼街道と人々に伝承されたんではないでしょうか?

絵図等を見ても山側には道らしい物が見当たらない。
意次氏は経費節減、時間短縮を旨に下瀬越えを敢行した。
江戸からも馬や家来が複数で荷物その他を相良城に運び入れた。

等等の事を基にすれば山側の狭い道は使わないだろう。
横須賀城に通じる官道が有るのにも関わらず。

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本日の推測論です。
尚、後述ですが飽くまで推測を基にした個人の記述ですので真実は意次氏のみぞ知る!です。

by micmacbig | 2018-12-06 18:21 | 田沼古道関連 | Comments(0)

田沼古道 完成?

先日入手した明治20年の地形図です、
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この大江を見ると横須賀街道に当たる道に「田沼街道:と記されております。


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が、果たしてこれが意次氏が江戸に帰った際の古道かは解明しておりません。
従前の古道を拡幅して「田沼街道」として事は歴史に刻まれてはおりますが、帰路に使ったかはまだまだ疑問点です。

一応現時点ではこの街道(相良街道・横須賀街道)を使用した物と捉えております。

by micmacbig | 2018-12-04 05:55 | 田沼古道関連 | Comments(0)

田沼古道 実際

国立公文書デジタルアーカイブより天保時代の国絵図を見つけました。
国絵図ですのでかなり大まかでアバウト間が満載ですが横須賀城までの道のりが表示されております。

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これを見ると勝間田川を亘るとやや南西に道が認識され鹿島神社から北西の山側に進む道は見出せない。
この南西に進んでいる道をそのまま進むと萩間川を超えて相良城に進んでいる。
この相良城の位置には田沼詰所と読める事より相良城で有る事が判明する。
また、そのまま進むと絵図故方向感は正確では無いが横須賀に到着している。
従って、下街道から繋がっている横須賀街道、相良街道と断定出来る。

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現在の段階では山側に有ったのは普通の古道であり、意次氏が江戸に帰った道すがらでは無いと確信を持っている。

其の現れに、江戸からもこの下瀬越をして相良城に物品を運び入れたり数人の家来が相良入りをしている事より、幾ら現在とは異なると言っても
山側の狭い道は行かないと思える。
立派な街道が存在しているのに。
また、意次氏が街道を整備して江戸に帰ったのも経費節減がメインであるのでそこに街道が有るのにわざわざ時間と手間を割いて山側の狭い道は使わないだろう。
との解釈である。

恐らく、後代になって誰とも無しにその山側の古道を通ったと伝承されておらが村の田沼古道と伝わったんではないだろうか?

が、真実は意次氏のみしか分からず、恐らくそうで有ろうとの想像論での結論である。

その続きの駿河国の絵図です。
駿府城と田中城が確認できます。
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by micmacbig | 2018-12-01 07:23 | 田沼古道関連 | Comments(0)

果たして「田沼古道」は。

ウォークに行った「田沼古道」でしたが、序盤のみで最終編は相良城に到着です。
そのルートですが、前述した様に廃線路とは異にして確定的な根拠の無い物をあれこれ推測と伝聞等に依り繋ぎ合わせた物が発表されている「田沼古道」の道すがらで有る。
各申す当方もそれらを元にして明治年間の公図と照らし合わせ此所では無いかと推測した古道を構築した。
何分、意次氏が辿った古道は唯一江戸に帰った際の一回のみしかないのでその足跡を辿る事は意次氏本人に「ここを通ったんだよ!」と証言してもらうしか真実は掴めない。
が、物理的に超不可能な事なので推測論を積み重ねて行くしか真実には近づけない。恐らくではあるが、藤枝から榛原迄は大凡出回っているルートに相違無いと感じる。問題は、勝間田川を超えてからの相良迄のルートである。勝間田川の超えると、鹿島神社が有る。そこから山側を進んで八幡神社や若宮さん等の寺社を経由して大鐘家の前を通って相良に抜けたと言う話しが主流となっている。確かに、そのルートは趣きも有り、野趣にとんでいてらしい道と感じていた。が、視点を新たにして見ると果たて真にこのルートで意次氏が帰京したのはが疑問となって来た。確かに従前の道を拡幅して整備して、街道とした事は実証されている。それで足りない部分は里道等を繋ぎ合わせて街道として完成させ、何時しか民衆から彼を讃えその道が「田沼街道」と称される用になった事は有名な話しである。

そして、現在開催されている田沼意次展には;角村々の古地図が紹介されている。これを、素人目で見ると、現在古道と言われている道は描かれていなくて主要な道である下街道しか姿が見えない。これは何を意味するんだろうか?推測の一つであるが意次氏がこのルートを選んだのは少しでも時間短縮と経費節減の為と聞く。当時横須賀城から駿河城迄の下街道は例え3尺巾とは言え存在していた事は明らかである。従ってわざわざ山側の小道を行ったんだろうか?が焦点となる。市役所から入手した公図で赤道を落としてみました。

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大概近隣の古老はこの道が古道で有るとのお話を頂いた。逆に赤道では有るがこの道では無くあの道とのお話しも頂いた。が、兎に角お話の世界での話しで、当然公図の中にも古道との固有名詞は無い。飽くまで赤道が有るだけです。従って言えるのは真の根拠は無い!の一言です。まだまだ、先の有る展示会です。どうぞ、相良資料館にお出で頂き意次氏の足跡を堪能して下さい。

by micmacbig | 2018-11-26 09:30 | 田沼古道関連 | Comments(0)

いよいよ開催 田沼展

待ちに待った田沼展示会が本日から開催された。
当方は明日参戦予定です。
賄賂政治家との呼び声も有るが実際は優秀な経済人と言われ、民衆の声を聞き民衆の為の政治をしたリンカーンの様な人物とも称される。

定府大名として江戸に帰る際に東海道での利用では無く里道を繋げて平らな道を選び従来より数日早く江戸に帰った事は続に言う「田沼街道」を使用した事が
最大要因であった。

そんな意次氏の展示会。大変と楽しみである。
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また、18日の日にはこんなイベントが有り、参加してみようと考えております。
不特定多数の方での公道ですので古道そのものと言うより広い道を通りながらこの辺を意次さんが通ったとの説明であろうか。
兎に角これも楽しみで有る。
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by micmacbig | 2018-11-13 18:19 | 田沼古道関連 | Comments(0)

歩こう会

新聞で下記のテーマのイベントを知りました。
まあ、歩こう会ですのでテーマに沿って単に歩くだけだろうと思いつつも
どんな内容なのかを知る為も含めT氏と共に参加して来ました。

9時に藤枝駅に集合して参加費300円を払い資料?を頂きました。
 まあ、これが資料を呼べるかは別として・・・・

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簡単な(超)説明を受けて進路を先ず北に向けました。
勝草橋を目指します。
中途の説明も何も有りませんでした。
只黙々と歩け 歩け 歩け
キタムラの所から東の小道に入るので高州迄は古道を通るのかな?流石!
と思いきや、やおら西に向け33号線をまっしぐら。
それじゃ 何の為にぐるっと回ったんだよ〜
意味ないじゃん。

そのまま、すたすた進んで相良街道に入り又々すたすた。
歩こう会はすたすたが好きなんだね。
中途スタバでも寄って行くのかね!

で、とにかくすたすたで大井川迄行き着きそこで昼食となりました。
その後のコースは川を北上して六合の駅を目指す(だけ)との事でここでお別れして
二人で帰路に着きました。

まあ、やはり「歩こう会」ですので途中で説明やらは時間の関係で難しい面は有ると思います。
それはそれで良いんじゃないかと思います。

自分一人ではなかなか行動に移せませんが、この様な会が有れば表面だけでも齧れます。
そこから気に入れば再度それなりに探索すれば良いんですから。

ですから、本日は大井川に散歩に行ったら歩こう会のお方々と御一緒しました
の巻きでした。

でも、風が強かったですね〜〜〜〜〜
by micmacbig | 2013-02-24 17:39 | 田沼古道関連 | Comments(0)

古道と駿遠線との遭遇点

昨日の古道ウォークの後、各地の接点を教えて欲しいとのお話が有りましたので
其の地区毎では書きましたが、纏めて全路線での遭遇点を繋げてみましょう。

では、相良地区からです。
ここは短い区間で絡み合う様に接点が有ります。

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そこから細江まで来ます。
バス停の所ですね。

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吉田に入ります。坂口谷川の直ぐ東側です。

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吉田の第2と第3です。
ちなみに下吉田駅が有った所です。

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そして、大井川地区に入ります。

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お馴染み相川の八木床屋様の交差点ですね。

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そして、ここには短命であった相川駅がありました。
併用橋までの命でしたねお疲れさまでした。

そして、前述した様に藤枝市に入ります。

ひょっとしたら見落とし有るやもしれません。
其の時はまた発表します。
by micmacbig | 2012-05-23 09:44 | 田沼古道関連 | Comments(0)